ラッコ隊
rairaiken424:

山中俊治の「デザインの骨格」 - 愛のインボリュート・ギア
歯車というと、多くの人は三角のとんがりを円周に沿って刻み付けた、いわゆるギザギザの円を思い浮かべるでしょう。しかし実を言うと、私たちの身の回りによく使われている歯車のほとんどはそうなっていない。歯車を三角の歯で作ると、ちょっとした不都合があるのです。
二つの歯車のお互いの歯が三角だとしましょう。まっすぐ向き合っている時は斜面と斜面がぴったり合っているので問題ありません。しかし、歯車が動いて離れて行くときに、その尖った先端が他方の歯の斜面をこすります。歯と歯が出会うときも同じです。少し引っ掻くだけなのですが、時計の歯車のように毎日何百回も出会い続けたり、エンジンのように一分間に何千回も出会う歯車では、お互いに少しずつ削り合って、徐々に大きな損傷になります。
そしていつの間にか隙間ができて、ごつごつと衝突するようになり、ますますお互いを傷つけ合って壊れてしまいます。毎日の小さな衝突が、積もりに積もって、破局に向かうのです。
こうしたことを防ぐために、歯車には数学で求められた特殊な形が与えられています。歯の斜面にインボリュート曲線というカーブが使われているのです。このカーブをギアに用いると、それぞれの歯がお互いに接するように出会い、転がるようにかみ合うので全く滑りが生じません。
二つのインボリュート曲線は、さりげなく出会い、ずれを生じることなく寄り添い、傷つけ合うこともなく離れて行きます。なんだか都合のいいラブソングのようですが。
現在、工業製品に使われている歯車のほとんどは、このインボリュート歯車です。この形が実用化されたのは19世紀の半ば。150年以上たった今も、私たちの身の回りのあちこちで、美しい出会いを作り続けています。

rairaiken424:

山中俊治の「デザインの骨格」 - 愛のインボリュート・ギア

歯車というと、多くの人は三角のとんがりを円周に沿って刻み付けた、いわゆるギザギザの円を思い浮かべるでしょう。しかし実を言うと、私たちの身の回りによく使われている歯車のほとんどはそうなっていない。歯車を三角の歯で作ると、ちょっとした不都合があるのです。

二つの歯車のお互いの歯が三角だとしましょう。まっすぐ向き合っている時は斜面と斜面がぴったり合っているので問題ありません。しかし、歯車が動いて離れて行くときに、その尖った先端が他方の歯の斜面をこすります。歯と歯が出会うときも同じです。少し引っ掻くだけなのですが、時計の歯車のように毎日何百回も出会い続けたり、エンジンのように一分間に何千回も出会う歯車では、お互いに少しずつ削り合って、徐々に大きな損傷になります。

そしていつの間にか隙間ができて、ごつごつと衝突するようになり、ますますお互いを傷つけ合って壊れてしまいます。毎日の小さな衝突が、積もりに積もって、破局に向かうのです。

こうしたことを防ぐために、歯車には数学で求められた特殊な形が与えられています。歯の斜面にインボリュート曲線というカーブが使われているのです。このカーブをギアに用いると、それぞれの歯がお互いに接するように出会い、転がるようにかみ合うので全く滑りが生じません。

二つのインボリュート曲線は、さりげなく出会い、ずれを生じることなく寄り添い、傷つけ合うこともなく離れて行きます。なんだか都合のいいラブソングのようですが。

現在、工業製品に使われている歯車のほとんどは、このインボリュート歯車です。この形が実用化されたのは19世紀の半ば。150年以上たった今も、私たちの身の回りのあちこちで、美しい出会いを作り続けています。

ga-ko:

ボケて(bokete): 【ボケ】仲間達がバターになっていく中、何故か俺だけパルメザン粉チーズになりかけている。無念。http://bokete.jp/boke/1371710

ga-ko:

ボケて(bokete): 【ボケ】仲間達がバターになっていく中、何故か俺だけパルメザン粉チーズになりかけている。無念。
http://bokete.jp/boke/1371710

kitune:

!!!!!!

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!!!!!!

sarasiru:

波動拳

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波動拳

rdlf:

(via 市ヶ谷駅で発見。ナニコレ :| : ついっぷるフォト)

619 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:2009/10/14(水) 11:56:09 ID:OMuQoRq9
ジムのじぃ二人

A「あのねーちゃん綺麗やな~」
B「ありゃ~近くで見たらシワシワやったで」
A「遠距離恋愛やな~」
A B「グワハハハハハ」

livedoor Reader (5466) (via 7h) (via otsune)

2009-10-15

(via gkojaz) (via ibi-s) (via sugoroku456) (via ouchchic)

61 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2005/06/12(日) 01:49:09
意外なところで神社の鳥居。古式の神社の鳥居って何メートル地下へ埋まっていると思います?

 答え → 0m


ただ地面に乗っているだけなの。良くそれで倒れないなと素人考えで思うが、
固定されなていない柔構造なので、右に力が加われば左に逃がし、左に力が加われば
右に逃がすという具合に、力が集中してかからない構造になっている。

しかし、現代科学の見地から、こういう鳥居が見直され、まったく良く数百年間も
地震に耐え倒れなかったものだとおせっかいして、古式の鳥居が、現代科学の見地から
理論上絶対に倒れない深さまで鳥居の根元を埋めるという事が多数行われた。

その結果、関西大地震で、確かに現代科学が言うように倒れなかったが、
数百年間倒れなかった鳥居がボキボキ折れまくった

 覚えているくらい親しんだテキストを使おう。
 すでに、引けるだけ線を引き、思い付く限りの書き込みをし、「血肉になった」と自分では思ってい るテキストほどいい。

 やり終えた後、愕然とすること、請け合いだ。


 方法は言うまでもない。
テキストを見て、覚えて、ノートに書き写す。
これだけだ。

  注意点がいくつかある。

(1)見ながら写さないこと
   一度、テキストを読んで頭に蓄えてから、テキストは見ずに頭にあるものを紙に向かって書き出すこと。
  「暗写法」とは「暗唱+書写」のこと だ。
  最初は1センテンスでいい。慣れると1~数パラグラフずつ、やれるようになる。
  見ながら写す作業は、慣れて来ると(とくに 「ひたすら」やっていると)、アタマを介さずにできるようになる。いわば自動書記状態になると、折角の内容がアタマをスルーしていくので、これを避けるた めである。

(2)間違えたところを消さないこと
   アタマがつまずいたところは、必ず痕跡を残すこと。
  間違いは消さずに、棒線を引いて、書き直す。
  写し間違いは、ただ注意不足か ら生じるだけではない。
  テキストの言葉と、自分の言葉との間に起こる軋轢からも生じる。
  スムーズに読み進めているときほど、テキ ストを自分の言葉に変換して(ねじ曲げて)読んでいる。
  書き写しの間違いは、それをあからさまにする。
  十分に理解していると思っ ている箇所で、テキストの言葉がねじ曲げられまいと身悶えするのを発見するだろう。
  普通なら素通りするような言葉が、信じられないほどの重み を持ち、思っても見なかった意味と機能を担っていることに気付くのは、こうした箇所においてである。
  著者の息づかいを聴き、断定の果ての逡巡 を感じることができるのは、この時をおいてない。

(3)すべてを写す こと
  1冊でも、1編でもよいが、ひとまとまりのテキストの最初から最後までを写すこと。


 あるテキス トを正確に書き写すことは、思うほど容易なものではない。
 正確にテキストを「観察」できているか、どれほど「理解」できているか、そしてどのよ うに「誤解」しているかまで、書写は「映し出す」だろう。
 知性を鍛え上げるハード・トレーニングのうち最強のもののひとつだが、なんとか1冊の 古典を写し終えたなら、見違えるほどに変わっている自分に気付くはずだ。

書き写す/人文学(ヒュマニティーズ)の形稽古 その1 読書猿Classic: between / beyond readers

塾にも行かず東大にいった人のやったことは「さっきやった授業を休み時間の最初の1分で思い出す」これだけらしい。でもこれだけのことがなかなか続けられないのであるよ。 

(via cherub69)

(via kotoripiyopiyo)

(via interglacial, ginzuna) (via vivit-jc) (via rurinacci)

(via mikahri) (via kurari) (via usaginobike) (via notatall33)

(via shortcutss) (via bo-rude) (via sironekotoro) (via tame-o) (via tkyis)

デザインを習い始めた学生の多くは、デザインとアートを混同しているためです。デザインとアートの間には、決定的な違いあります。それこそ”Design solves a problem, art is expression”(デザインとは問題解決であり、アートとは自己表現である。)というものです。

八百屋さんで売っているのが野菜、果物屋さんで売っているのが果物?そうではありません。

野菜は「食べられたくない」、果物は「食べられたい」という違いがあると言うのです。

果物は動物に美味しく食べてもらうことによって、果肉は消化されてしまいますが、種は糞と一緒に新しい土地に移動することができます。これは、生命を維持しようする巧妙な仕組みになっているのです。確かに果物の種というのは食べても消化されず、それがまた種を殖やしていきます。

一方の野菜は、食べられたくないので毒を持っています。独特の苦みやえぐみは、蓚酸(しゅうさん)と呼ばれるアクです。ほうれん草は茹でてアクを取る、きゅうりは塩もみにして周りのトゲとアクを取っていく。野菜を効率的に消化するにはひと手間かけることが必要だということです。豆の場合も生だとレシチンという毒があってお腹を壊す。だから煮て食べないといけないのです。

それぞれが生命が生き残るための理にかなった戦略なのです。